2017/01/10

女子力という言葉

朝日新聞2017年1月10日社会面から

今朝の朝日新聞社会面に載っていた
「女子力」アップ 女子校PRという記事。
サブの見出しには、「モテ」ではなく「自立する力」育む とありました。

朝日によると、もともと「女子力」という言葉は2000年ごろ、漫画家の安野モヨコさんが知人編集者の奥さんの魅力を表したのがきっかけで、「素直な気持ちで女子として可愛らしかった」佇まいを表現したのだそう。それが一般に流行り、やがてモテ系女子の可愛らしさを表現する言葉にもなった。女子力という言葉をよく使っていた私自身、そんな風に感じています。柔らかくて軽やかで、女子であることを楽しむ感じの言葉。だから、好きな人とのあれこれをうまくいかせるための狙いだって、潜んでいる言葉。

実際自分自身も、仕事に没頭していてネイルもファッションも適当、デートも行っていない、女子トリートメントができていないと感じたとき、これじゃ女子力ゼロだよとか、女子力上げてこうとか、そんな話を周囲としていました。

最近でも、たとえば保育園で男の子を巡ってお友達の女の子がチョコや手紙を渡す攻防を繰り広げていたときに、「○○ちゃん女子力高いね」などと、お母さん同士でその様子を話す。つまり、女子独特の可愛らしさや発言、考え方やふるまいなどを総括して、女子力と言っていました。


でも、朝日の記事によると最近では、かなり使われる場面も様子も違ってきている。
いま、女子力という言葉は、オリジナルの頃とは随分と違った意味を加味されている様子です。
その違いっぷりに、ちょっと面喰いました。

たとえば、ある女子校の定義する女子力とは「明確なビジョンを持ってきちんと自立できる女性になるための力」。
ある男女別学校では「女子が男子と対等に能力を発揮していくために身に付けるべき力」。
しかも気になるのは、この男女別学校が男子に向けて求めるのは「○○校男子の人間力」

なんで女子は女子力で男子は人間力?

これらの学校が、もし生徒に個人の自立心や社会で生き抜く意識を鍛え、知識を学ぼうと言いたいのなら、なにもわざわざ女子力という言葉に置き換える必要なんかない。人間力でいい。

どうしてわざわざ今更、男子と女子向けに言い方を変える必要があるのだろうか。
これから男女の役割を極力分けない社会にして行かなければという時代に入りつつあるのに。

女子という表現の持つ、イマドキ感を借りたいのだろうか。
でも、これこそまさに、時代を逆行している表現に感じる。

急速な少子高齢化で負担がいやでも重くなり、いずれ子育てや介護といった自分を捧げていく問題との関りが今まで以上に難しくなっていくであろう10代に、なぜ男女別で人間力を教える必要がどうしてあるのだろう。
男女で分けるのは保健体育と身体測定だけで十分だ。

もしも学校で、子供の内面を社会的な存在になるように指導してもらえるのなら、私は男女の別でその内面を育てて欲しくはない。これからは、男女はその別なく、本当の意味で助け合って生きていかないと、社会が回らなくなるからだ。そっちを強調してほしい。男女ともに、同じ方向を向かって人間力を育てていかないと。

学校で男女の別をわざわざ作ってどうするの?

男らしく、女らしくなんて個性だから、当人が自分で勝手に育てていく。
もしくは家庭や彼らの周囲との関りで育っていく。

学校で教えようとする人間力に、男女の別はもう必要ない。
女子力という言葉に様々な意味をもたせると、
いつまでたってもワンオペ育児をしなければいけない働くママが減らないのではと
直感的に感じる私は、この国の女性に対する要求の高さを怖がり過ぎているのだろうか。

女子力育てるなら、生活力のある男子力も育てないと!

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