2016/11/01

天草にて「南蛮菓子セミナー」開催しました

先週、熊本県の天草を訪ねました。
親子イルカの天草エアラインに乗って

地元のお菓子メーカーや旅館、
レストランの料理人などプロの方々と
天草ならではの南蛮菓子を考える
「南蛮菓子セミナー」に
講師としてお招きいただいたからです。

天草を訪ねるのはこれで4度目。
最初は10年前で、個人的に島の歴史に興味があったので、レンタカーで観光気分で回ったのがきっかけでした。
2泊3日の短い旅でしたが、忘れられない景色がたくさんありました。海沿いに干しだこがずらりと並んぶ素朴な風景もありながら、ふとしたところに建つ古い教会の佇まいが、どこか異国情緒を醸し出す、とても印象的な島でした。

それ以降、天草にはご縁があり、取材で何度か訪ねています。
いつ来ても景色が素晴らしいし、食も豊か。そして、お仕事で知り合う方々も、気持ちの良い方ばかりです。何度来ても、心から楽しい。でもいつも仕事でそそくさと帰らざるを得ないので、
いつか夏の天草の海で、思い切り遊んでみたいなあ。




世界初の地図帳「世界の舞台」より。オランダ人オルテリウス刊行
今回セミナーでお話ししたのは、
南蛮文化が栄えたころの天草と南蛮菓子の関係についてや、南蛮菓子の元であるポルトガルの菓子、修道院菓子などについて。

南蛮文化と聞くと、長崎などが真っ先にイメージされがちですが、当時天草は、南蛮文化の重要な拠点になった場所でした。

左の地図は、1595年にイエズス会士のルイス・テイシェイラというポルトガル人が作図した、日本を単独で描いた世界初の日本地図。
カトリック布教活動を進める彼らにとって、きわめて重要な地名として、天草のCutama久玉、Conzura上津浦、Xiqui志岐が示されています。当時天草が、南蛮文化が浸透した特別な場所だと言える、大きな証のひとつです。





天草コレジヨ館に400年以上の時を超えて現存する、
グーテンベルクの印刷機で刷った本。
羊の皮の装丁で、風格あり

そして、なんといっても天草が誇れる歴史的事実は、コレジヨ、つまり、今で言うカトリックの大学があったことです。

日本で唯一、もちろん初のインターナショナルスクールです。もともと大分でスタートしましたが、当時の情勢からひとところにはいられず、南島原を経て天草へ移ってきました。

当時このコレジヨには、59名もの生徒が学んでいたといいます。しかも、生徒の中にはポルトガル人6名、イタリア人も1名いたという記録が残っています。また、ポルトガル、スペイン、イタリアなどユーロッパ各地を訪ね、8年間の長い旅を経て帰国した初代スーパー帰国子女の天正遣欧使節の4人も、帰国後はここ天草のコレジヨに入学し、さらに学びを深めていました。日本語、ポルトガル語、ラテン語が飛び交う環境だったのでしょう。

教育内容もまた大変充実していました。ラテン語、ラテン文学、日本文学、キリスト教、仏教、地理、算数、唱歌、楽器、弁論、説教、さらに実習科目として、油絵、水彩画、銅版画彫刻、印刷術、オルガン製作、時計、天文器具製作。

さらにここでは、天正遣欧使節らが持ち帰ったグーテンベルクの印刷機を用いて、平家物語やイソップ物語などの本を次々と印刷し、それらを教科書としても使っていました。しかもその刷り部数が凄い。当時他のヨーロッパで1冊の本につき、300~500部が平均的だったところを、天草のコレジヨでは1500~3000部も刷って製本していたそうなのです。その熱気たるや。さぞこの場が、熱い想いに満ちていたのではないか。

だって大変ですよ、この世界初の原始的な活版印刷機で、本を1冊作るということは。
まずは内容の吟味や文章を作成するという大仕事がありますし、さらに実務の印刷や製本も大変です。
実際に、当時の印刷機を復元した機械を触ってみましたが、決して軽いもんじゃない。文字を組むのだってひと苦労、もちろんインターナショナルスクールですから、日本語で組んではいません。すべてポルトガル式ローマ字です。ようやく組んだ版にインク(当時は墨に亜麻仁油を混ぜた)を塗るのも、紙を置いて版画のように押し当て、さらに上から圧をかけて時間をかけて印字し、紙を取り出して乾かすのも、手間も時間もかけなければできないことばかり。きっとこの本を作ることに携わった信者たちは、誇らしさのようなものを感じながら、次々と天草本を作っていったのでしょう。

よく、優秀な大学がある土地は学園都市として発展すると言いますが、当時の天草も、地元のカトリック信者の多さも(島民の約8割が信者でした)相まって、不安定で残酷な戦国の世にありながら、日本の中でもかなり独特で、アカデミックな雰囲気が少なからずあったのではないかと、私はつい想像してしまいます。

血で血を洗う戦国時代に、重い年貢を課されていた庶民の生活は、物質的には非常に貧しいものだったと当時を記す文献には記されていますが、信じる何かがあった人びとの心は、殺伐とした世の中にあっても、少なからず豊かだったのではないかと思えてなりません。


ポルトガルの食事会でいただいた、
半生パオン・デ・ロー

南蛮菓子については、カステラ(ポルトガルではパオン・デ・ローと呼ぶ)、ボーロ、金平糖など、日本に残って独自に進化した菓子をはじめ、江戸時代の文献には名前だけ残ったものの、日本には材料がなくて浸透しなかったもので、ポルトガルには今も存在する菓子など、さまざまな例を上げてお話ししました。

16世紀当時、日本で菓子に当たるものは、茶に添えられる点心のようなもので、木の実や味噌をつけた餅などが主だったよう。
饅頭も、当初は野菜などが入っていて、小豆の餡が入るようになったのはもっと先のこと。
砂糖を使った菓子も全く存在しなかったわけではないけれど、それを食べられるのは、ごく一握りの貴族階級や権力を持つ武将など、いわゆる富裕層だけだったのです。

ですから、砂糖や卵を使った夢のように甘くて黄色くて栄養豊富な南蛮菓子は、一般の日本人にとって味覚の衝撃、大事件。まさに、第一次スイーツ革命だったのではと思います。






アヴェイロという町の最中のような菓子、
オーヴォシュ・モレシュ・デ・アヴェイロ

実際、菓子は布教のために使われる側面があった一方で、イエズス会士のルイス・デ・アルメイダなどが指揮した病院で、栄養食として菓子が与えられたという伝えもあります。

また信仰と菓子は、宗教儀式や祝祭の場でも密接な関係を持ち、
切っても切り離せないものです。

例えば、今もポルトガルのアヴェイロという町で愛されている右の写真の修道院菓子は、最中の皮のような部分が聖餅、つまりキリストの身体を表すオシュテアの材料である小麦粉と水で作られています。中は、卵黄とシロップ(砂糖と水を煮詰めたもの)で作った卵クリームが入っています。
ちなみに、この黄色くて非常に甘い卵クリームこそが、
ポルトガルの修道院菓子の基本になるものです。

貝殻や魚の形を模しているのは、この町が昔から漁業で栄えた土地だから。
最中によく似たこの菓子をポルトガルで初めて見たとき、
私はどうしても、和菓子との縁を強く感じざるを得なかったのです。
近くて遠い、南蛮菓子!

と、このような南蛮菓子のお話を、
セミナーではいろいろとさせていただきました。
天草での南蛮菓子プロジェクトは始まったばかり。
これからも、微力ながらお手伝いさせていただきます。

それにしても、セミナーでお話しするのっていつも緊張します。
終わると、反省点ばかり。
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)がどうしても言えず、
3回以上噛みました。
これから毎日唱えようかな。

改めて、天草宝島観光協会のみなさま、
セミナーにご参加いただいた天草の事業者のみなさま、
素敵な機会をいただき、ありがとうございました!

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